エクプロな日々〜Exploitation (cinema/anime)days〜

所謂「一読者の意見に過ぎません」という事です。

「二つの『CLANNAD』を通して見える出﨑統と京都アニメーションの特質」番外・汐編

 11月いっぱいで予約受付が終了だったのですが、今週いっぱいまで予約が延長となったとの事ですのでもう一つ記事を作成しようと思います。まぁ宣伝、みたいなものなのですがよろしければご笑覧頂けると幸いです。

littlefragments.booth.pm

 予約はこちらの方から受け付けています。是非とも一度ご覧ください。

 ちなみに前回、以下の記事をあげています。当記事も合わせ拙稿「二つの『CLANNAD』を通して見える出﨑統と京都アニメーションの特質」とは違うものですが、拙稿までに至る過程で得た発想を元に記述していますので、ご笑覧頂き興味を持って頂ければ是非ともご予約下さい(興味なくとも、錚々たる執筆陣が揃った批評誌ですのでそれはそれで是非)。

 

deidei23.hateblo.jp

 こちらは前回の記事になります、少々雑な記事なので恥ずかしい限りですがよろしければ…

 

 さて、拙稿「二つの『CLANNAD』を通して見える出﨑統と京都アニメーションの特質」は出崎統が監督した『劇場版クラナド』と京アニ制作のTV版『CLANNAD』『CLANNAD〜After Story~』を対比しつつその差異や通底するものを見出すというスタンスをとりつつ出崎統山田尚子について論じた訳なのですが、実際にはこの二作は本質を追求すればする程に対比の対象として難しい事が解ったのですが、そのなかでも主人公である岡崎朋也の娘である『汐』は最も対比の難しいものでした。

 難しい、というよりも無理ですね。みもふたもありませんが…

 『劇場版CLANNAD』において汐は朋也の娘でしかなく特に語ることが見当たらないのですけれどTV版『CLANNAD』両作上において冒頭から幻想世界の物語に登場し『CLANNAD〜After Story~』の最終話において並行的な物語である事を暴露した上でドラマの主導を握る事となっています。

 TV版CLANNADが、朋也と渚が暮らす町の中で閉じられた物語と幻想世界の物語によって並行した物語になっているのですが、それは村上春樹の『この世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドを想起します。また『CLANNAD〜After Story~』のラストシーンが汐が木立の中で眠っているカットで終える事は前作と合わせ川端康成の『眠れる美女』を思い起こさずにいれません。

 村上の『この世界〜」は一人の人物が二つの世界で多層化し眠りと覚醒の間でその世界を行き来きする訳ですが、CLANNADにおいて朋也は彼の住む町に渚と共に縛り付けられ、幻想世界では少女によって囚われる事になります。幻想世界と本編との考察については多くの方々が様々が発表されているのでそちらを参照して頂くとしても、幻想世界の汐が眠ると共に朋也が幻想世界から解放され町で暮らす朋也が救済される、これは一見『解決』の様に思えますが実際はただ縛り付けられた間で互いが行き来している事にすぎません。朋也の解放はそこにはなく彼は自由を手にできていないのです。

 また、川端の『眠れる美女』は極めてフェティッシュな小説ですが同時に主人公は眠る少女に様々な「物語」を夢想する訳です。それは少女と主人公の境界が曖昧なセカイの夢想ともなり得る物語でもあります。少女、それは近代によって得た存在であるのですが、物語上においては極めて意味の大きい存在でもあります。少年と違い社会と繋がらない時限的な存在である少女は完全と不完全、成熟と未熟・清純と濃艶それらが併せ持つ存在であり、それらは世界そのもので社会を持つ少年に相対し少女は世界を手にしているのです。少女の持つ世界、それは少女である時だけの時限的な世界ですが、それ故に少女の眠りには大きな意味があります。

 さて、TV版CLANNAD~After Story~が汐が眠っている姿で終えている事は興味深いです。そしてもう一つ、眠る汐を見つける風子の存在も同じく関心を持たざるを得ません。

 風子は長く意識不明のまま身体のみが成長し内面が未熟な存在であり、それは社会の規範に留まらず逸脱を厭いません。CLANNAD~After Story~のラストシーン直前、風子と公子の会話はそれを表しています。公子が風子に手を焼くシーン、それはコミカルでかつ木立の中で木漏れ日を纏い眠る汐を見つける為のつなぎ、感情を揺さぶり感動への助走を意味するわけですが果たしてそういった映像表現上の技術だけのものでしょうか?

脚本 志茂文彦コメント

ラストの風子と公子の会話シーンは、普通カットするところなんですが、石原監督が「これは、なにかやっぱり大事なことなのような気がするから、このまま残しましょう」ということで残したんですよ。(中略)なんか良い助走というか、ラストに至るまでのちゃんとしたアプローチになっている感じです。こういったところが、Key作品の醍醐味の一つなんじゃないかと思います。

CLANNAD〜AFTER STORY〜コンプリートブック P113

  結果として映像技術的に合理性を獲得できたと志茂は結論つけ、演出が全て意図的では無かった事をこのコメントは明らかにしています。

 風子と公子の会話は決してコミュニケーションが上手くいっているとはいえません。それ故に、風子が脱社会的な存在である事を明らかにします。そのことによって風子は、世界そのものである眠っている汐を見つける資格を得るのでしょう。

 拙稿「二つの『CLANNAD』を通して見える出﨑統と京都アニメーションの特質」において、京アニが描くCLANNADは朋也と渚、汐の家族は彼らが育ち暮らし結婚し子供を得て家族を営む町に縛られ囚われ続けるのだということを論じました。それは、この作品が閉じた世界の話である事を明らかにします。彼らや彼女らが暮らす町に外部は存在しないのです。

 一度命を失い、また一方で眠り「僕」を解放した汐、そして、再生を果たし木立の中で眠る汐を見つける社会に同調しきれない白痴で純真な少女。それらは物語上においても、映像表現や表象においてもシームレスにここで述べたものを一つの世界として消費させてくれます。

 しかし、それらは結びついているのでしょうか?確かに、様々な世界をKey作品は描きます。ですが、木立の中で柔らかな木漏れ日の中で眠る汐は果たして「眠っている」のでしょうか。そして、汐は目覚め白痴の少女の呼びかけに応えるのでしょうか。

 Keyを原作とする一連の作品、それらが描くルートやストーリーと世界は果たし目覚める事があるか、それはこれから解るのかもしれませんし、もしかしたらすでに目覚めている事に気づかずに少女の目覚めを期待しているのかもしれません。いずれにしても、まだまだKey作品を手放す事はなさそうです。

 

 

 この記事もゆるく時間制限で制作しているのでかなり雑な文章になっています、ここまで読んで下さった方がいらっしゃったらただただお詫びを申し上げ感謝する次第です。

 とはいえ、この様なアイデアを元に拙稿「二つの『CLANNAD』を通して見える出﨑統と京都アニメーションの特質」は筆を進めました。拙稿はきちんと校正をして頂き文章としての体裁をまとめておりますのでよろしければご予約をお願いします。

 

 

 

 

「二つの『CLANNAD』を通して見える出﨑統と京都アニメーションの特質」番外・父親編

 

 「二つの『CLANNAD』を通して見える出﨑統と京都アニメーションの特質」番外編、との題名でいきなり何の番外編なのか?と思われるでしょうけれど実は『東映版Keyのキセキ』という評論同人誌に寄稿の機会を頂き、そこでの拙稿の題名が前述した題名になります。

littlefragments.booth.pm

受注生産との事で、11月中に予約をしないと入手できないとの事ですのでもう殆ど時間はありませんがどうかご注文頂き手に取って頂きたいと思います。何卒、何卒……

 

 さて、本当に時間もなく少しでもご注文を頂き拙稿を読んで頂きたいので自分も何か宣伝ができないかと思った次第なのですが、特にできそうな事もなく思いついたのが「番外編」を書いてみようとという事にしました。

 出崎統京都アニメーションの「CLANNAD」で物が書こうと思った際、実は両作のインタビューなり制作話などから対比すれば筆は進むと思っていたのですが、そもそも手に入る資料が少ない、作品を見れば見るほどに共通点がない、というか誰も出崎のCLANNADについて語らない、なんか某アイドルアニメのXENOGLOSSIAっぽい。そんな事で逆に吹っ切れて、なら出崎で書いてやるとなれて方針が定まったっのですが、それでも幾つか出崎・京アニに共通する点があり結局『東映版Keyのキセキ』に掲載された拙稿には採用しなかったのですけれど、そういったネタで改めて少し筆を進めてみようと思います。所謂、供養ってやつですね。

 

脚本を作っている時に、俺は「これはお父さんが主人公だよ」

出崎統劇場版CLANNADパンフレットインタビュー(P24)

 

ー脚本では、お父さんの姿が一瞬見えると書かれていました。

石原立也)最終的には、その部分を書く事はしませんでした。

CLANNAD〜AFTER STORY~コンプリートブックP135

 出崎と京アニCLANNADを対比する上であまり資料が無かったと前述したのですが、とはいえ全く無い訳でもなく引用した二つの資料で朋也の父親について両監督の言を対比させる事が可能です。これは、極めて対極的な姿勢ですね。出崎は朋也の父親について積極的な姿勢で演出するのに対して石原は消極的というよりも最後には存在すらなくしてしまう、これらの姿勢は出崎のCLANNADにおいて智也が最後まで子供の立場をとり父親の後押しによって智也の再生へと繋がるのと、京アニの一期から続くAFTER STORYまでの間で築いた朋也の人間関係のなかで朋也が再生し父親が町からでていくのを朋也が汐と共に見送るといった演出の差異に繋がる訳ですね。

 これは、出崎の描いた朋也は「父親」となるドラマであり。石原が描く朋也は「家族」の獲得を目指す物語である事を感じさせます。

 出崎のCLANNAD個人主義の話で京アニCLANNADが疑似家族の話なのですが、それについて『東映版Keyのキセキ』の拙稿「二つの『CLANNAD』を通して見える出﨑統と京都アニメーションの特質」を読んで頂きたく思います(ダイマ

 さて京アニの朋也の父親が、ただ朋也の障壁としての役割しかなく父親らしい事の一つもしない事に対し出崎の朋也の父親は父親としての役割を果たしていると様に感想を得るのですが、そこには極めて危険な姿勢を感じざる得ません。

 劇場版CLANNADのパンフレットのインタビューで、出崎は朋也の父親に対して同情的でありそれ故に彼に出番と活躍が用意される事になる訳なのですが、それらには父親としての御都合主義がありその背後の男性的なへゲモニックな態度が見え隠れします。俺がお前に暴力をふるったのは愛故だ、ってやつですね。

 ドラマにおいて、特に家族を扱う物語ではこの様な暴力の合理化は避けて通れない訳ですので、決して須く否定されるものではないのですが、CLANNADというコンテンツが本来「擬似家族」において感動を得る様になっているに対して、積極的に改変された劇場版CLANNADが結果的に家族の暴力を感動に変換させるドラマを内包した事はやはり自覚的でありたいですね。これは泣けるけど実際にはこんな御都合主義は御免だと。

 ただ出崎の演出した渚を失ない失意に呑まれ汐を両親に預ける朋也の身勝手さは、朋也の父親の息子にした行為と相似をなす構造になる訳ですね。これは、出崎のパーソナリティによる部分が多いのかもしれませんが、やはり彼の「人間」を描く態度故なのだと思います。逆説的ですが、プロテスタンティズム的な態度があるのではないかと思います。

 

 一方、京アニCLANNADの石原の描く朋也の父親は、朋也の障害として立ちはだかる事すらなくただ物語の為の存在にすぎません。それは引用した「CLANNAD AFTER STORYコンプリートブック」の石原のインタビューを見る限り消極的な態度が見て取れます。実際、存在として死んでいるんですね。正確には、生きていないって事です。

 物語上での朋也の障害として彼の父親が現れる度に「朋也の父親」って存在が立ち上がる訳ですが、朋也の怪我は別として一貫してそれらが朋也の父親である必然はなくただ朋也の障害の役割を演じさせられているのにすぎない、つまり智也の父親にはドラマが用意されないという事です。

 これは、石原の演出家としてのパーソナリティというよりも彼の原作に寄り添う姿勢からのものであると思われるのですが、引用したインタビューを見ると智也の父親にドラマをあえて与えなかった様にも思えます。

 京アニCLANNADの朋也の父親については存在として死んでいるとは劇中にドラマが用意されないという事です。そして、朋也が汐と共に朋也の父親が町を出るのを見送るシーンは、第22話の渚の「町の仕業による奇跡」を得る事ができず同じく朋也の「町は大きな家族」として認められる事なく放逐される事を想起させます。京アニ版のCLANNADは世界=朋也が暮らす町って物語になっていて、町と世界が強固に結びついているもしくは町の外を拒む姿勢があるので、その町から出ていくしかも世界の中心である朋也と汐に引き止められる事もなく見送られる事は重い意味を感じざる得ません。町を出るシーンをわざわざ描かれた朋也の父は、この瞬間だけ生きているんですね。全くもって逆説的ですが、死と同義である町を放逐されるそのシーンだけは朋也の父親は生きているんです。それは、それまでの彼の存在が物語上で生きていない事を思わせられる訳です。

以上、思いつくままに劇場版CLANNAD京アニクラナドの朋也の父親について筆を進めてみました。実は多くの部分で劇場版とTV版には違いがる訳ですが、朋也の父親について出崎の態度はやはり教育的な態度を感じますね。出崎の映画に関する見識を知らないのですが、やはりドラマを用意し物語に組み込む姿勢は劇場版にとして「正統」であると思いますし、TV版の石原が原作であるゲームをプレイした事を顧みるとドラマを用意しない態度には原作に対する「敬意」があるのだろうと思います。

 

 

少々雑ではありましたが『東映版Keyのキセキ』の拙稿は主幹であるhighlandさんをはじめ様々な方々のお力添えで読めるものとなっていますので、是非とも予約頂き同誌を手にとりご笑覧頂きたいと思います。